ロックスターの横顔Vol.4

デュラン・デュラン

‘80年代のクイーンと 新しいスター、デュラン・デュランの登場 MUSIC LIFE CLUB Presents

ロックスターの横顔Vol.4 デュラン・デュラン

‘80年代のクイーンと新しいスター、デュラン・デュランの登場

2021.January


ここまでクイーン登場時から日本での成功を語って来たが、意外なことにアメリカ市場でのクイーンの認知度に変化が起きたのは’77年発売のアルバム『世界に捧ぐ』からだ。シングル「伝説のチャンピオン~ウイ・ウィル・ロック・ユー」が全米シングル・チャート4位を記録し、その時点で最も成功したクイーンの曲となった。それがさらに本格化したのは、’80年発売のアルバム『ザ・ゲーム』に収録されていたロックンロール調の曲「愛という名の欲望」(シングル発売は’79年)と’80年の「地獄へ道づれ」が2曲続けての全米シングル・チャート1位になってからだ。さらに’81年には初の南米ツアーも大成功させ、クイーンは名実ともに世界的なスーパーバンドに駆け上がっていった。‘75年の初来日公演から大スターに成長していく彼らを、私達はもちろん追いかけ続けたが、もう以前のように気安く写真を撮ったり、簡単にインタヴューが出来る相手ではなくなったことも否応なく感じることになる。

 

ということで、『ミュージック・ライフ』としてはクイーンに次ぐスターを見つける必要性に迫られることになった。不思議なもので私たちが「新しいスターがほしい!」と願うと必ず救世主が目の前に現れてくれた。’70年代後半のチープ・トリックやジャパンが良い例だ。もちろん、当時の私達に時代を見る目があったことも事実だけどね。そして’80年代……イギリスのある新人バンドのPVを見た私達は、「これは……!?」と色めきたった。曲は、そこそこ良い。だが、なによりもメンバーのルックスが良い! 本国では、まだ無名だったことも良い! 「プラネット・アース」という、その曲を歌っていた5人組の名はデュラン・デュランといった。

 

こうなると本人達に直接会って、その実力を確かめずにはいられない。東京からイギリスの地方都市バーミンガムまで出かけ、そこのレコーディング・スタジオで、まだ少年っぽい初々しさを感じさせたメンバー5人に取材したのは‘81年のことだった。その時、「お金がない」という彼らにランチをおごってあげた。翌年に初来日が実現し日本の少女達を熱狂させたのは、彼らがアメリカでの成功を手に入れる1年前のことだ。



『ミュージック・ライフ』での彼らの初インタヴューは1981年5・6月号に掲載。左はバーミンガムにて、右はブライトンのビーチでの5人。

Pix : ©︎ Watal Asanuma / ML Images / Shinko Music


‘83年を境に、デュラン・デュランは「ニュー・ロマンティックの旗手」として第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンを牽引した。その音楽性はデヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージック等のグラム・ロックの流れにエレクトロ・ポップの風味を加えたファッショナブルなもので、バンドのアイドル的なルックスの良さと相まって’80年代前半のロック界に一大ブームを巻き起こした。デュラン・デュランに続きカルチャー・クラブ、ユーリズミックス、ワム!といったイギリスのバンド群がアメリカの音楽市場を席捲したこの現象は‘60年代にビートルズを筆頭とするイギリス勢の活躍を第1次ブリティッシュ・インヴェイジョンとする波の、第2波として記憶されることになる。

 

この時期、業界に大きな影響を与えたのはMTV(ミュージック・テレビジョン)の登場だった。MTVは24時間ポピュラー音楽のビデオ・クリップを流し続ける音楽専門チャンネルとして1981年に登場した。当時のアメリカが不況で有望な新人が生まれにくかったところに、イギリスの若いバンド群のポップで馴染みやすいサウンドとファッショナブルなヴィジュアルの魅力は、またたく間にMTVを媒介として拡散され、アメリカの若者達にも熱狂的に支持された。デュラン・デュランは、そんなイギリス勢の代表的なスターとしてアメリカでの成功を手に入れた。



1982年に初来日。写真は4月25日、東京・日本青年館のステージ。

Pix : ©︎ Koh Hasebe / ML Images / Shinko Music


前記の通り彼らはアメリカでの成功より1年前に初来日して日本の少女達を熱狂させた。その時のジョン・テイラーとの雑談が今も忘れられない。大阪公演のために東京から新幹線に乗り込んだメンバー達と共に、当時まだあった食堂車でコーヒーを飲みながらジョンが真剣な顔で私に聞いて来た。

「クイーンも日本での成功を足掛かりに、世界的な成功を手にしたんだよね?僕たちも彼らみたいに有名になれるかな?」

彼は初期クイーンの日本での成功を良く知っていたのだ。目の前の子犬のような瞳を見ながら私は、こう応えた。

「ええ、もちろん!」


ML取材班は新幹線での移動にも同行、左端がジョン・テイラー。自分たちの未来を尋ねたのはこの前だったのか後だったのか。

Pic : ©︎ Koh Hasebe / ML Images / Shinko Music



初来日時のファンの反応、バンドの演奏力、なによりも成功したいというメンバー達の熱意と若さがまぶしかった。そして、その通りデュラン・デュランは世界的なバンドに成長し、2000年代の今も活躍している。バーミンガムで初めて取材した時のランチ代の借りは、まだ返してもらっていないけどね……。

(東郷かおる子)


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東郷 かおる子 Kaoruko TŌGŌ 音楽専門誌「ミュージック・ライフ」元編集長。
神奈川県横浜市出身。星加ルミ子氏に憧れ、高校卒業後、(株)新興楽譜出版社(現・シンコーミュージック・エンタテイメント)に入社。

1979年に編集長に就任。1990年に退社。現在はフリーランスの音楽ライターとして活動。近著に「クイーンと過ごした輝ける日々」(シンコー・ミュージック刊)。



東郷かおる子さんが編集長だった『ミュージック・ライフ』は『MUSIC LIFE CLUB』と姿を変え、クイーンを中心とした往年の洋楽アーティスト/グループのニュースや情報をお伝えするサイトとして、シンコー・ミュージックが完全に無料のサービスとして運営中。


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